皆さま、こんにちは。武藤頼胡です。
梅雨が明け、いよいよ夏本番ですね。
私は小さな頃からスイカが大好きで、大人になったら半分に切ったスイカをスプーンですくって、一人で丸ごと食べたい!とずっと思っていました。
先日、ついにその夢を叶えようと写真のスイカを買ってしまいました。
写真ではわかりづらいですが、高さがなんと40センチもある大きなもの。
「よし!半分食べるぞ」と意気込んだものの、結局1/8だけ食べて、あとは冷蔵庫へ。笑
まぁ、お腹を壊しても仕方ないですし、これくらいがちょうどよかったのかもしれません。

【太平洋戦争から八十年】
終戦の日、8月15日は皆さんご存じの通りです。
広島に原爆が投下されたのは8月6日、長崎は8月9日。
きっと八十年前のこの季節、蝉の鳴く暑い日々のなか、いつ爆撃されるかわからない恐怖と向き合いながら、皆が国のために働いていたことでしょう。
私の父は昭和6年生まれ。寡黙で、まさに“昔の日本のお父さん”そのものでした。
母は、父に敬語を使っていて、幼かった私はそれがとても不思議でした。でも、その理由を尋ねることは一度もしませんでした。
父はすでに7年前に、母は19年前に他界しました。
二人は静岡県の沼津市出身です。
寡黙だった父が、夏になるとふと口にする戦争の話がありました。
「沼津も大空襲にあったんだ。焼夷弾が落とされた」
「焼夷弾ってなに?」と尋ねた幼い私に、
「一つの爆弾が、いくつにも分かれて、さらに細かくなって……それが人の上に落ちる。肌に落ちた人もいたよ」
たぶん腕のことを言っていたのだと思います。
私の頭の中には、「ヒュ〜……」と音を立てながら、空から落ちてくる爆弾の姿が浮かびました。一つの爆弾が二つに、四つに、八つに分かれていく――その向こうに、赤く染まった空。
でもそれは夕焼けではなく、きっと街が燃えて赤くなっていたのだと思います。黒い煙がもくもくと立ち上がる、悲しい風景です。
人々は空を見上げながら、命からがら逃げていったのでしょう。
「沼津には大砲があって、それで撃ったら当たったんだよ。皆で歓声が上がった」
父はそう話してくれました。
後になって私が調べたところ、沼津インター付近にある「愛鷹山(あしたかやま)」の高射砲は発射されたものの、B29まで届く高さには足りなかったようです。
でも、当時13歳の父にとっては、大人たちの歓声と、その場の空気がすべてでした。インターネットもない時代、耳にする言葉が唯一の情報源だったのです。
もし父が数年早く生まれていたら――17歳で兵隊に召集され、志願兵は14歳から認められたという事実を思うと、胸が締めつけられます。

―――
今日は会社ではなく、美容院へ行く日でした。
電車を降りた荏原町駅で、私の前を歩いていたのは女子高校生。
彼女はさっとリュックから日傘を取り出してさし、私も少し遅れてそれに倣いました。
その足取りは、スキップしているかのように軽やかで、なんだか良いことでもあったのかな?と思うほど。
踏切の前で並んで待っている間、彼女は前だけをじっと見つめていました。
この子は将来、何になりたいのだろう。どんな夢があるのかな。今日のお昼は何を食べるんだろう
そんなことを、私はふと考えていました。

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平和を守るのは、国や誰かだけの仕事ではありません。
私たち一人ひとりが、その責任を持っているのだと思います。
ロシアのウクライナ侵攻から3年半、シリア内戦、イエメン内戦、アフガニスタン、パレスチナ・イスラエルの紛争――
世界では今も、尊い命が日々失われています。
そして日本では、いじめの件数が年々増え、ハラスメントという言葉を聞かない日はない。
戦後八十年。
私は「私の責任」として、この平和を守っていこうと心に決めました。
そう思えた時、街に落ちていたゴミに気づき、それを拾う自分がいました。
暑さにぐったりしていたご婦人に「大丈夫ですか」と声をかけることもできました。
「平和のために何ができるか」なんて難しく考えるより、
“自分はそこにどう立つのか”を決めること。
きっと、それが第一歩なのだと思います。

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踏切が開くと、女子高生は小走りで夏の街へと消えていきました。
その元気な後ろ姿を、私はずっと目で追っていました。
そして、そんな日常の光景を、ずっと見守っていたいと心から思いました。